愛知県北設楽郡設楽町道133号竹桑田清崎呼間線 その5

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その4からの続きです。

前回の通り、町道は国道257号へ合流するように川沿いへ進路を取るのですが、田口線はここを直線的に進み、突き当たりの山を第三清崎隧道で越えていました。
かつてここには現在廃校となってしまった清嶺中学校への通学用に設けられた「長原前」という無人の小駅があり、ここから先の町道はそのアクセス道を指定したものです。
本稿の趣旨はあくまで町道歩きなので、そのまま終点を目指すべきでなのですが、ここまで田口線と付き合ってきたので、少しだけ寄り道して第三清崎隧道の現状もお伝えしたいと思います。

町道からは植生に覆われ、第三清崎隧道の姿を眺めることはできず、隧道直前にあった筈の長原前駅も、その痕跡は全く窺えません。以下に現在の隧道坑口の状況と、現役当時の長原前駅と隧道の写真を並べてみますが、当時の面影は全く想起できない程に変わり果てていることがお分かりいただけると思います。


「鳳来町誌 田口鉄道史編」(1996年3月 鳳来町教育委員会)口絵p5より引用

隧道の入口は大量の土砂に埋まり、それに伴って洞内にも大量の湧水が溜まっていました。ざっと水位を調べてみたところ、腰丈ほどありそうで、2015年12月の本道訪問時には水温が低く入ることができなかったため、隧道内については2016年7月に再訪問した際の状況となることを、予めご承知おきください。

意を決して内部へ進入します。転倒しないよう注意しながら進むと、たちまち腰まで水に浸かってしまいました。夏でもなお冷たく身震いがします。

ただし、隧道は幸いにも出口方向への下り勾配になっていたため、最も深かったのは坑口付近で、そこからしばらく進むと溜まり水はなくなり、道床が姿を現しました。

さらに進むと、前方左側から斜め方向にこの隧道の行く手を阻むようにコンクリートの壁が迫ってきました。実は国道257号の清嶺トンネルは途中からこの清崎第三隧道を転用しており、そのため閉塞処理がされているのでした。

旧隧道が崩落して国道トンネルに影響を与えないようにするためか、無数の鉄骨がクランプで国道トンネルの擁壁と田口線隧道の内壁を、突っかえ棒のようにして押さえていました。

国道257号清嶺(せいれい)トンネルは、清崎第三隧道とは比べ物にならない立派なトンネルです。

洞内も広く快適な二車線路なのだですが、この立派なトンネルのすぐ裏側に旧田口線の隧道が潜んでおり、あの隧道を拡幅したものとは、にわかに信じられません。

それでは寄り道を終えて町道へ戻りましょう。
田口線廃線跡が長原前駅周辺で町道から分岐する辺りには、「町道竹桑田呼間線 設楽郵便局 設楽町」と記された杭が設置されていました。

郵便局の名が入っているということは、町道指定にあたり、簡保の地方公共団体融資でも入っていたのでしょうか。それにしては、あまりにもな状態なのですが…。

田口線跡転用区間に別れを告げると、町道は国道257号を横断します。

国道を横断すると、町道は至って平凡な舗装された道へと様変わりします。これまでの道とも思えぬ区間と同じ路線であるとは到底思えないほどの変貌ぶりです。

かつての地図記号では荷車道として記されていた道は、寒狭川沿いに真っ直ぐと進んでいます。今までは木々や崩落に阻まれて薄暗い木陰の中、廃線…いや、町道を歩いていましたが、久々の陽光に気分も晴れやかになります。

町道の右手には2001(平成13)年3月まで清嶺中学校があり、かつて生徒は田口線で長原前駅からこの道を歩いて通学していたのでしょう。

旧清嶺中学校の前まで進んで行くと、正面にガーダー橋が見えてきました。清嶺橋です。

一見一径間のガーダー橋に見えるのですが、よく眺めてみると、両岸とも取付部にはコンクリート桁が架かり、途中には橋脚が設けられ三径間になっています。ガーダー部分は下路式で、高欄部分が低いため、別途鋼製の高欄が設置され、高欄が二重に存在する形態となっているのが特徴的です。

親柱の銘板や道路台帳には「昭和40年改築」とあるので、元々は径間の短いコンクリート桁橋だったものを、長径間の取れる鋼製ガーダー橋として、治水面から河川内に橋脚を置かないように改修したのかもしれません。

清嶺橋を渡ると呼間集落で、旧国道-廃線跡-荷車道と変遷してきた町道竹桑田清崎呼間線は、これまでの行程からすると呆気ないほど平凡な終点を迎えます。

このように、「町道竹桑田清崎呼間線」は、その名前からだけは想起できない、様々な出自の「道」を繋いだ変化に富んだ路線でした。

道路台帳によると、この町道の供用開始は1986(昭和61)年3月となっている。なぜ田口線廃線から18年もの時を経て、特に廃線跡を整備したとも思われないまま供用開始されたのか、その経緯については完全に調べ切れておらず、謎のままとなっています。この不思議な町道の生い立ちについては、今後も引き続き課題として調べて行きたいと考えています。

(了)

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