愛知県北設楽郡設楽町道133号竹桑田清崎呼間線 その3

その2からの続きです。

「通行止」看板のすぐ後背には、一目で出自が鉄道橋であるとわかる鋼製の桁橋が架橋されています。

道路台帳図面に素っ気無く「無名橋」と記されたこの橋は、幅員3.0m、橋長4.8m(設楽町道路台帳「町道133号竹桑田清崎呼間線」より)と小規模のものです。

しかも町道といいつつ、桁橋の上には床板は見られず、単なる廃線跡の様相を呈しています。かつては木板などが敷かれていたのではないかと周囲を観察してみましたが、それらしき痕跡は一切見られず、この橋が道路橋として機能していたとはあまり考えられない状態でした。

谷は浅く距離も短いので迂回することは可能ですが、今回はあくまで「単なる町道を歩く」ことを個人的なテーマにしていたのであり、この無名橋が町道として指定されている以上、「本当に町道?」という言葉が脳裏を過ぎりつつ、平均台よろしく渡橋しました。

「無名橋」を渡ると、いかにも廃線跡という風情の平場が直線的に続いています。既に廃線から50年近くが経過し、路盤の中央には立派な木も生えています。「無名橋」の状態や樹木の大きさからしても、廃線後に当地を自動車が通行することはなかったと推察されます。

路盤をじっくり観察すると、落葉や枯枝に覆われて分かりにくいですが、レールや枕木は完全に撤去されているものの、鉄道時代のバラストはそのまま残存しているのに気づきました。

しばしの間は穏やかな廃線跡が続く…と書くと、まるで廃線跡踏査をしているように錯覚しますが、今私が歩いてるのは現役町道です。しかし現役道であるという感覚は全くありません。更に先を進むと、様相が怪しくなってきました。

田口線は前述の通り、1965(昭和40)年8月の台風により被災した事が契機となり、路線廃止の方向へ大きく舵が切られることになったのですが、1968(昭和43)年8月の台風で田峯-長原前(ながらまえ)のこの区間の道床が流失したことが、更にその動きに拍車をかけています。恐らくこの場所こそが、台風によって道床流失という甚大な被害を受けた場所と思われます。崩落現場と思われる場所を走る現役当時の写真が下の写真です。


「青春のアルバム 豊橋鉄道田口線 総天然色、連写二眼の元祖!」
(2006年12月 小早川 秀樹)より引用

現在は川側にも植生が生い茂り、寒狭川の様子は樹間からチラリとしか窺う事が困難なのですが、現役当時は非常に見晴らしのよい場所だったことがわかります。
崩落地は道床の跡形もなく、杣道程度の人跡が見られるものの、それ以外にはかつて鉄道が走っていた面影や、ましてや現役道であるとは到底思えません。

一歩踏み外せば川へ真っ逆さまに滑落しかねない有り様です。

20~30mほど続く崩落地を越えると、かつて田口線を支えていた石垣の断面を見ることができました。既にかつては石垣の内側にあったはずの場所からも木が生えており、50年近い歳月を感じざるを得まえせんでした。

崩落区間を抜けると、また町道は平静を取り戻します。地形図ではこの町道は途中で切れる形で描画されています。正確な位置は照合していないので推測ですが、恐らくこの崩落地点が地形図からの記号消失地点になっているものと思わます。

平穏な区間は300m超続いていました。バラスト以外には廃線跡としての痕跡も失われています。
「町道」を歩いていると、時折対岸の国道257号を走る車の音が聞こえてきます。
ごく当たり前の日常がそこにはあり、鉄道としては廃線となり、道路としても現役町道なのに地図にさえ載らないこちら側の非日常的な空間との対比に、不思議な感覚を覚えました。

先の崩落を目の当たりにしたからか、この辺りの歩きは非常に快適なものでした。
石積みの法面も状態よく残存しており、廃線…いや、町道歩きとしては非常に楽しいものです。

更に歩を進めると、二番目の橋が姿を現しました。こちらも先の橋と同様に道路台帳には「無名橋」と記されています。
幅員3m、橋長5.8m。先の橋より1mほど長いことになります。

第二の無名橋を観察すると、桁の側面に「大阪鉄工所 昭和五年」と記された銘板が取り付けられていました。
この区間は1932(昭和7)年の開通なので、見栄えこそ地味ですが、開通当初からの歴史ある橋がひっそりと残存していることに感動を覚えました。なお、大阪鉄工所は現在の日立造船の前身にあたる会社です。
こうして廃線探索としか思えぬ町道歩きは、まだまだ続くのでした。

(つづく)