静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル廃道 その6

その5からの続きです。

堀割による曲線改良で一連の改良も終わりかと思いきや、実はまだ続きがあります。

掘割の先、小さな谷を跨ぐ橋の部分も一新されています。

前回ご紹介した旧道との位置関係。現道は旧道を完全に遮断する形で、地形などお構いなしに直線的に進路を取っています。

一方の旧道です。ガードレールで完全に封鎖されており、車での進入はできません。しかしながら入口付近では、アスファルト路盤が見えるなど比較的良好な状態が保たれています。

さらに進んでゆくと、現道は緩やかな登り勾配で沢を跨ぐ橋へ向かってゆきます。
旧道はそれよりも緩い勾配で地形を忠実にトレースするように進んでおり、現道との間には徐々に高低差がついてきます。

上の写真右手、現道には「幅員減少」の警告標識がみられ、やや大きめの「走行注意」の補助標識(?)が掲示されています。
つまり、この橋の先からは幅員の狭隘な未改良の県道に戻ってしまうということになります。

旧道を更に進むと、いよいよ路盤が草木に埋もれてアスファルトが次第に見えなくなってきました。法面は玉石積みです。

現道は既に橋になっていますが、旧道はまだ地上を辿っていています。旧道のほうにも警戒標識がありますが、こちらは「すべりやすい」で、「凍結・積雪時」の補助標識が添えられています。
この先が沢になっており、カーブしている為に設けられたのでしょう。

このあたりまで来ると、路面のアスファルトは完全に見えなくなり、未舗装路のような状態となっています。そしてやや大きめの落石も目立つようになってきました。

現道が立派な橋で越えている沢を、旧道は一目見ないとそれと気づかないような、小さな橋(暗渠?)で越えています。

というか、落石に埋もれてしまい、もはや橋の体を成していません。
欄干代わりのガードレールの脇に建つ、主であるカーブミラーを失ったオレンジ色の支柱が廃道の悲しさをより一層感じさせます。

橋から沢の上流部を眺めます。元々は深く切れ込んでいたのでしょうが、度重なる土砂の崩壊によって徐々に橋下の空間が失われ、最終的には橋自体が砂防ダムになってしまったような状況です。

糸魚川静岡構造線の地質の脆さを、このようなところでも肌で感じることが出来ます。現道当時は、川沿いの区間ほどではないにしろ、ここもまた幾度と無く土砂被害に遭ったのではないかと推測されます。

橋を過ぎると、旧道は現道との高低差を一気に詰めるように急に登り勾配になります。旧道は、極力長い橋を架橋する事を避けるために、ギリギリまで沢に沿って進み最低限の区間だけを橋で渡っていたのでしょう。

いよいよ現道との合流地点です。
こちらもH鋼を土台としたガードレールで完全に封鎖され、車が進入することはできなくなっています。

旧道と現道の対比。陰と陽。

現道側から合流地点を眺めます。旧道はやや急な下り勾配で右手へカーブして隠れるように進路を取っているので、千頭方面から下ってきた車は緑の多い時期などはその存在に全く気づかないことでしょう。

現道の改良区間起点から眺めた寸又川。いかにも大井川水系といった蛇行ぶりです。

これより千頭側は、離合困難な一車線の隘路が続いています。

本項で何度も引用している「寸又峡温泉開湯三十周年記念誌」に、当時の本川根町長松岡利平氏が「寸又峡温泉発展の構想」という題目で文章を寄せており、その一節に以下のように記されています。

さてもうひとつの大きな要件は、アクセスとなる国、県道の整備促進であります。温泉と結んでいる寸又峡線は、朝日トンネル等の開通など大きく進捗しつつありますが、依然として多数の未改良区間が残されており、地形の急峻などから容易に整備に進まない状況にあります。この点の抜本的解消は、大井川の方の市代からトンネルを穿ち栗代橋へ結ぶルートにあります。これによって通行時間の大巾な短縮と道路の安全性が確保されることとなりますので、その実現に向けて精力的に取り組んで参りたいと思います。
寸又峡温泉開湯三十周年記念誌(1992年 寸又峡温泉振興会記念誌編集委員会編集・発行) 45ページより引用

確かに地形図を眺めると、長島ダムに近い市代地区と栗代は距離的には意外と近く、この構想がもし実現すれば寸又峡への交通利便性は飛躍的に向上するものと思います。
しかし残念ながら現在はそのような夢のある計画は存在せず、現在の県道を優先度の高い順に局所的な改良の推進を基本とする整備方針が策定されており、順次改良されるのを待つしかないのが実情です。

そして現道の橋です。名前は不明です。
この橋、もともとなのか盗難にあったのかは不明ですが銘板が見当たらず、現地では名前が分からなかったのです。ところが、帰宅してから写真を見ていると橋歴板らしきものが設置されていたのを見落としていたようで、もしかしたらそれを見れば橋名が分かったかもしれません。
探索の最終盤だったため、疲れも出ていたのでしょうか。致命的なミスでした…。

木々が生い茂り、旧道の橋の姿は眺めることができませんでした。

玉石積みの区間です。
現道から見ると、路肩はコンクリート吹き付けで養生されていることが分かります。やはり過酷な地形・地質であることが伺われます。

振り返って。
ここだけ見ていると山間の快適なドライブウェイですが、奥のカーブの先には運転者泣かせの区間が待ち構えているという…。

なお、今回ご紹介している寸又峡橋からこの橋までの区間は、「大間バイパス」と名づけられています。この大間バイパスの開通については、地元新聞紙「静岡新聞」の1991(平成3)年1月24日朝刊17面にて「大間バイパス開通 県道千頭寸又峡線 冠水の難所解消へ」のタイトルで報じられており、それによるとこのバイパスの正式な事業名は「寸又川ダム冠水対策事業」で、総事業費約26億円のうち県負担が22.9%、中部電力の負担が77.1%となっています。
県道改良ながら民間企業である中部電力の負担が八割近くを占めていますが、これは、そもそもの冠水の発端が、下流の寸又川ダム建設に伴う堆砂による川床上昇によるものであることが影響しているようです。
また、記事によると「その1」の最後にご紹介した寸又峡橋親柱のニホンジカの像は、本川根町が県観光施設整備の補助も得て設置したものだそうです。

最後に、Google Earthから見た現在の画像と、Google Earthに国土地理院の空中写真を重ねたものを並べて過去と現在を比較してみましょう。

まずは上流部。

標高データはGoogle Earthより、画像は国土地理院空中地図(CCB7618-C9A-17 1976(昭和51)年10月7日撮影)より引用

Google Earthより

こちらが現在の状況です。
比較して見ると、やはり目立つのが大崩落です。上空から確認すると、崩落は稜線の頂点まで達しています。
そして大間橋手前の急カーブや、初代橋があったと思われる屈曲地点の鋭角さから、かなり厳しい線形であったことが良くわかります。

続いて栗代川合流点付近から下流側を。

標高データはGoogle Earthより、画像は国土地理院空中地図(CCB7618-C9A-17 1976(昭和51)年10月7日撮影)より引用

Google Earthより

こちらは一般的な道路改良事業同様、地形に忠実であった旧道に対し、トンネルと橋、掘割を駆使して、いかに狭く曲がりくねった路線を直線的に改良するかに腐心したかが分かります。

個人的には「寸又峡温泉開湯三十周年記念誌」に構想として記されていた、栗代と市代を結ぶトンネルの開通を是非とも実現してほしいところです。
この計画が実現すれば、寸又峡と長島ダム・接岨峡観光が一体化でき、今は寸又峡温泉ツアーでの大井川鐵道井川線トロッコ列車体験区間が千頭から奥泉までのごく短い区間となっていますが、市代から長島ダムまでのアプト式区間も組み込むことができるようになり、観光もより一層活性化するのではないかと思います。

しかし現実的には、費用対効果を考えると恐らくは現道に致命的な問題が発生しない限り実現しないでしょう。

今回の改良区間の踏査や資料調査を通じて、峻険な山奥にあり主力であった林業が衰退した後に観光産業で生計を立てて行くための、大間集落の努力と強かさを感じました。
大井川鐵道では「きかんしゃトーマス号」の運転などによる活性化を進めており、これらの動きと呼応して、今後とも寸又峡をはじめとする奥大井が発展することを願うばかりです。

(了)

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