静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル廃道 その2

その1からの続きです。

朝日トンネルの寸又峡側坑口へやってきました。迂闊にも写真を撮り忘れてしまったのですが、背後には寸又川左岸林道が広大かつ急峻な山奥へと分け入っています。この林道は、日本一怖い吊橋とも言われた夢想吊橋のある逆河内へと続いていましたが、年々崩落が進んでおり、ついに最近の地理院地図では日向林道との分岐点から先の道路記号が消去されてしまいました。そればかりでなく、日向林道も千頭ダム上部から先が消去されています。
よくみると道を消しただけで等高線に不自然な隙間があるので、その痕跡を推測するのは容易ですが…。

この奥地にも千頭森林鉄道の遺構があるため、いつかは訪問したいと思いながらも、年々状態は悪化の一途を辿っており、また林道自体が抜ける先のない、いわゆる「ピストン林道」なので、なかなか探索しに行くことができないエリアです。

閑話休題、現在の県道77号は、改良前の寸又川左岸林道を突き抜ける形で敷設されています。そのため、林道の起点は現在は朝日トンネル坑口脇になり、下流側、二代目大間橋までの区間は厳密には林道の廃道区間ということになります。

しかしここで林道と県道を区別して割愛してもあまり意味がないので、まずは大間橋までの間の寸又川左岸林道廃道区間をご紹介いたします。

まずは朝日トンネルの銘板を見てみましょう。

朝日トンネル
1990年11月
静岡県
延長 592.1m 幅 6.5m
高 4.5m施工 (株)間組

と記されています。
寸又峡橋を含む朝日トンネル改良区間の開通は翌1991(平成3)年となっていますので、その前年には隧道は完成していたということになります。

現在の林道起点側から下流の廃道区間を眺めてみると、ガードレールが設置され、かつて林道が敷設されていた形跡には注意しないと気づかないようになっています。

ガードレールを超えて廃道区間へと分け入ります。この区間は県道ではなく寸又川左岸林道区間です。
路面は舗装されていますが、廃道から25年が経過し、緑の侵食が確実に進んでいます。思ったよりも落石などは少なく、若干草木の繁茂や倒木がある以外には特に難渋することなく進むことができます。

少し進むと舗装が途切れました。なぜかは分かりませんが、もしかすると現道の建設にあたり、現道周辺だけ工事の利便を考えて舗装したのかもしれません。

しばらくすると道幅が広がり、朽ち果てた小屋が見えてきました。

立哨小屋のような大きさの小さな小屋が二軒並んで立っています。

一軒はなんのためのものか不明でしたが、もう一軒は内部に配電盤を入れるような箱があり、もしかすると長大林道の入口にあたるため、専用電話などが設置され入場ゲートのような役割を果たしていたのかもしれません。

小屋のある広場を過ぎると道幅は再び狭くなり、擁壁で斜面を盛土した部分には小崩落が発生し、土砂が流れ込んでいました。

小崩落を越えると、錆びて朽ち果てた通行止めの標識が辛うじてその姿を維持していました。

標識は山さ行がねがのヨッキれん氏のレポートによるとブック式になっており、上半分をめくると「専用林道 この林道の通行には十分注意してください 千頭営林署」という文字が記載されているらしいのですが、あまりに腐食が進み、触ると外れて折角の標識が破損してしまいそうだったので、今回は敢えてめくることをせず、内側に隠された文字を確認することはしませんでした。

そして更に進むと再び広い敷地が現れ、舗装が復活します。その1でご紹介した大間橋の対岸にあたる部分に到達しました。
つまりここがかつての寸又川左岸林道の起点ということになります。

丁字路の突き当たり、大間橋を渡った正面にあたる箇所には、

69km 島田→
15Km 千頭→

の案内標識が残されていました。

二代目大間橋の左岸側橋台部分です。
右岸側同様ガードレールで行く手が塞がれています。

先ほどは右岸側から左岸側を眺めていましたが、今度は逆に右岸側を遠望します。
右岸側は、やや突き出た岩盤の上に橋台が設けられていたことが分かります。少しでも橋長を短くしようという苦心の立地だったのでしょう。

川面を見ても橋脚の後などは見られず、空中写真の影でも中間に橋脚があったようには判別できないので、恐らくはワンスパンで川を跨いでいたようです。桁橋では加重に耐えられなさそうな長さなので、恐らくトラス橋だったと思われますが、空中写真の影にはトラスのシルエットが明確に写されておらず、橋台は路面の数メートル下に段差があることから、上路式のトラスだったのかもしれません。

いずれにしても、大間橋の形式ついては、現地でかつてを知る方に聞き取りを行ったり当時の写真を探すか、高解像度の空中写真を入手しなければ結論が出せそうに無いのですが…。

橋の手前には、一般車両が誤って寸又川左岸林道に侵入しないよう、「← 寸又峡 2.7km」の案内標識と、「これから先は千頭営林署の専用林道で、一般車両の通行禁止としています」という看板が立てられています。

橋の記号や「寸又峡温泉」、「千頭・静岡方面」という文字は残っていますが、道路の部分は消えてしまっています。恐らく赤色で描かれ、光の直射により褪色してしまったのでしょう。

寸又峡から大間橋を渡り、丁字路を右折して千頭方面を向いた現在の光景です。
やや急な下り勾配となっており、舗装の残る路面上には大小の落石が点在、一部は山から流れ出した水で濡れており、草や土などが多い被さり自然に帰りつつあります。

更に進むと、ガードレールが道路側に曲げられ、進路を塞ぐような状態になっています。
そして落石等の堆積物が急速になくなり、路盤が明瞭に現れています。

最初は人為的にガードレールを曲げて通行止めを示しているのかとも思いましたが、それにしては強引に曲げた様にガードレールは歪んでおり、またこの辺りを境に落石が綺麗さっぱりなくなっています。
この地点はちょうど川が屈曲する地点にあたることから、増水時に水が圧力をもって路面まで押し寄せてガードレールをへし曲げ、路盤上の落石を洗い流してしまったのではないかと思われます。

「寸又峡温泉開湯三十周年記念誌」には以下のような記述が見られます。
少々長くなりますが、興味深い内容なので略さず引用します。

寸又峡温泉の歴史を語るとき、欠かせないものに道路の修復工事がある。これも実に林道が県道に昇格する昭和四十六年まで、村が総出で参加した雨天の恒例作業であった。この道とはとことんつきあわされた。なにしろ豪雨はもちろん、ちょっとした雨にも必要以上に反応するのである。土砂かきが主な仕事であるが、時には路肩がばっさり落ちることもしばしば。雨降りの翌日はクルマで奥泉まで出かけたものであった。全長八キロ。全部が全部破損しているわけではないが、道が新しかったから集中豪雨の攻撃などうけたらひとたまりない。深夜雨音をききながら、翌日待ち構えている仕事が脳裏によぎって、やれやれと思わない日がないでもなかった。
道路作業は、別に労役ではなかったが役場のお出ましを待っていては埒があかない。自分のことは自分でやる主義の村の人たちは当然のことのような顔をして出かけたものだ。自分たちも不便であるが、なによりもお客様に迷惑がかかる。マイクロバスだとて立ち往生が明らかとあれば、さっと出かけて行くに限るのである。
そんなふうに日常茶飯事でなれ親しんでいた中で、忘れられないのは昭和四十五年の大雨である。路肩がなくなってしまったのである。完全に道がぶっつり切れてしまった。こうなると村は陸の孤島である。大間発電所から下りて、吊橋を利用するというルートを半年ほども行き来した。陸の孤島とはいえ、なんらかの方策はあるものである。最終的には歩けばよいのであるから。だから、道路が壊れたからといってめげるような我々ではなかった。そんな時でさえ客を迎える手立てを考える。クルマが通れる所まで、「こんなことばっかりじゃないんですよ」などと言いながらだましだまし連れてきて、あとは歩いてもらったりした。
七夕台風の時もなかなか盛大であった。もちろん道路状況が、である。この時は大間橋が落ちて流れてしまった。今度は川原である。雨が降っている最中は両幅いっぱい満面の水をたたえていても、水が引いてしまえば川原が顔を出す。ここを下って栗代からは梯子を用意した。これも半年というものこんな調子だった。場所が場所だけにお客も、こういうところもあるのかなー、と諦めていたふしもある。なにしろ秘境なのである。
寸又峡温泉開湯三十周年記念誌(1992年 寸又峡温泉振興会記念誌編集委員会編集・発行) 90~91ページより引用

毎年の様に襲い来る台風、そして大洪水。洪水の度に、栗代橋から寸又橋に至る道路は、きまって水没する。戦後急激な木材需要から、寸又川沿い林道が開設され、道路の開設と共に、かつて斧をいれたことのない地域まで、大量に伐採されたこともあって、降雨と共に土砂が寸又川に流入し、長い時間かかって下流に押し流されてきた土砂が、下流のダムによって堰き止められ堆積し河床があがる。開設当時、相当高かった道路も何時の間にか道路の処まで河床があがって、増水時には必ずといっていゝ程道路は水没し、寸又峡温泉との往来は、遮断される。一旦水を冠ると、路敷は洗われ、特に舗装して無い頃は、路盤の岩がきり立って、水がひいても使用できない状態が続いた。舗装されてからも柔軟な部分は、水圧により舗装が剥がれてデコボコの為、通行出来なくなった事等、何度と無く災害を経験した挙句、鉄筋を入れてコンクリート舗装をしてからは、減水しても路面に陥没等の障害が無い限り通行出来るようになった。洪水、交通止めを何回となく繰返し、その都度、県土木の人達に御足労を煩し、何度となく陳情を重ねた結果、工法として嵩上げしても河巾が狭くなり、現場の状況からトンネル案と決定し、現在は素晴らしい二車線道路の開通を見たのである。この工事費ついては中電さんの協力を頂いたと聞いている。長い間の努力が実ったものである。
寸又峡温泉開湯三十周年記念誌(1992年 寸又峡温泉振興会記念誌編集委員会編集・発行) 55~56ページより引用

このように、奥泉から寸又峡までの間は豪雨に限らず度々道路被害に遭遇しており、その度に生活と観光産業を守ろうとした寸又峡の人々の苦労と、口八丁で観光客を逃すまいとする強かさが偲ばれます。

川と道、寸又峡温泉との関係を示す逸話が残るここから先の区間が、森林伐採による土砂崩落と下流堰堤による堆砂のために川面と路盤が非常に近接した状態になっており冠水による被害が顕著だったことから、栗代橋~朝日トンネル~寸又峡橋という改良区間を生み出す原因となったのです。

そのため、この地点から先では、路盤はアスファルトではなく頑強な鉄筋コンクリートで舗装されており、それ故に廃道となった現在でも道路としての姿を保っているというのは、ある意味皮肉な状況でもあります。

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駒止めも何もないコンクリートの道は、まるで堤防のような錯覚すら覚えます。
落石等も全くなく非常に歩きやすく、川の流れも近いことから遊歩道といわれても違和感がないくらい、のんびりとした清々しい光景です。
しかしよく眺めてみると…。

一定間隔で路肩には穴が書いており、このように、ガードレール支柱の跡らしき鋼管の名残が点々と残されていました。

中には、強引に引きちぎられたような支柱が、僅かばかり顔を覗かせている箇所もありました。度重なる洪水で引きちぎられ、下流へと押し流されてしまったのでしょうか…。
洪水の圧倒的な力に驚くばかりです。

このことからすると、現役当時は堤防のような現在の景観とは異なり、ガードレールがきちんと設置され、それなりに道路には見えたのでしょう。

来た道を振り返って。
一番奥に現道の寸又峡橋が、その手前の岩塊が川面に迫り出しているのが旧大間橋です。
そして旧大間橋からこちら側へも道形があるのが見て取れると思います。これが前回ご紹介した1972(昭和47)年発行の1:50,000で見られる初代大間橋を渡った先の旧道の跡ではないかと思われます。

しばらく進むと道は大きくカーブしています。
左側は大きな岩壁に阻まれ、文字通りのブラインドカーブとなっています。もちろん当時はカーブミラーなどが設けられていたものと思いますが、運転にはかなり神経を使わねばならない状況です。

カーブを曲がりきり、元来た方向を眺めてみます。
さすがにこれだけのカーブなので、道幅は前後に比べてやや広く取られています。

そして昭和47年版の1:50,000地形図に描かれていた初代大間橋はこの辺りに架橋されていたと疑定されるのですが、ご覧のように当時から比べてもさらに高さを増したであろう川床に埋もれてしまったのか、痕跡は全く見つけることができませんでした。

そしてこれから進む方向へと踵を返します。

妙に明るく、そして緑が全くみられない岩の斜面がいやでも目に飛び込んできます。

なんか事前に見ていた写真と状況が違うのですが…。

…これ、突破しないと踏破できないんですよね?

 

つづく。

[ご注意]
廃道区間は崩落・落石などで大変危険な状態です。当ブログはこの区間への立ち入りを一切推奨いたしません。
また、記載された内容は訪問時点のものであり、自然災害や人為的改変などにより、現状と大きく異なる場合があります。
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