静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル廃道 その5

その4からの続きです。

現道の栗代橋から旧道の栗代橋を見下ろします。

こちらは現道との間に高低差があり、車の進入がなとことからか、大間橋とは異なり、橋台端部はガードレールなどで塞がれていません。

左岸側を眺めてみます。
こちらの橋台は中央部分が破壊されてしまっています。洪水によるものなのか、背面の土砂崩落によるものなのか、あるいはその両方が複合したのが原因なのかは判然としませんが、とにかく内部が露出ししてしまっています。

少し引いたアングルで。
モルタル覆工や金網で防護されていたものとは思いますが、それをあざ笑うがごとく土砂が崩落しています。この廃道のハイライトでもある大崩落地は廃道後の崩落ですが、現役時代からもこのような崩落は多く発生しており、その2で「寸又峡温泉開湯三十周年記念誌」から引用したように、地元の方々はその度に淡々と日常の一部として、道路の修復にあたっていたのでしょう。

左岸側は急な上り勾配になっています。
千頭側から来ると、急な下り坂のブラインドカーブの先にほぼ直角左カーブで橋が掛かっている状況だったので、かなりヒヤリとする場所だったのではないかと思います。

左岸に残された廃道と現栗代橋との間には5m以上の高低差があります。幸い人跡がついているので、それを頼りに廃道へと下りてみます。

栗代橋の袂を草を掻き分けつつ下りて行きます。

まずは落石注意の警告看板がお出迎えです。
たしかにこの先で大規模な落石が発生しているので看板に偽りなしではあります。

つづいて中部電力管内では、嫌というほど見かけるダム放水の注意看板が現役当時さながらに建てられています。かなり状態がよく、支柱や看板そのものの状態が妙に新しく感じられます。
もしかしたら廃道化後に、釣り人向けに新設されたものという可能性もあるかと思います。

橋台手前にやってきました。現役当時はここで進路が90度左に転換していたので、かなり走りづらかったのではないでしょうか。
落石があり正確にはわかりませんが、橋の手前だけに離合できるよう、心なしか路幅が広く取られているようにも感じられます。

さきほど現栗代橋上から眺めたとおり、左岸側の橋台部分は路盤自体が崩壊してしまっています。

逆に対岸の右岸側橋台を見てみると、こちらは形状をよく残しています。
上流側の岩盤が洪水避けになっているというのもあるかも知りません。

振り返ってみると金網で防護されている様子がみてとれるものの、上部ではそれを支える柱ごと倒壊し網も破れ、全く機能していないことがわかります。地味ではありますがかなり危険な状態と言えます。

廃道は現栗代橋左岸側橋台から先、現道に飲み込まれて完全に消失してしまっています。現道と旧道の切り替えをどのように行ったのかが気になるところです。
恐らくは先に栗代川下流側の車線を着工し、嵩上げ工事中は上流側の車線が旧道に接続しており、下流側の車線が完成したらそちらを対面通行で開通させ、上流側の車線を埋めて造成したのではないかと思われます。
というかそれ以外には一時期完全に通行止にする以外の切り替え方法が思いつきませんでした。

この辺りは、当時の現地を知る方を探してお話を伺うなど、更に調査を進めて行ければと思っています。

そして現道と旧道の高低差がゼロになった地点から、旧道跡が復活します。
ごくわずかな岬のように張り出した稜線を、旧道は地形に忠実になぞって行きますが、現道は少しでも安全を確保できるよう、稜線を切り取って掘割として半ば強引に横切っています。

旧道の入口です。ガードレールとポールで封鎖されています。

両者を並べてみます。
掘割区間は実に短いものですが、旧道は大廻りして狭い道、かつ急カーブとなっていたので、この改良の効果もかなり大きいものと思います。

一歩旧道に踏み入ると、入口付近こそアスファルトが少し覗いていましたが、奥へ進むにつれて斜面からの崩落土砂とは明らかに異なる土砂が路面を埋め尽くしています。
恐らく人為的なものと思われ、この区間については工事の際の残土、あるいは崩落の際に発生した土砂の廃棄場として利用されたようです。

ガードレールの足元を隠す程度に残土が積まれています。

残土の上には、既に木々が育ち始めています。

振り返ると落石注意の警告看板、そして後背には寸又川と栗代川の分岐点、現栗代橋が一望できます。

現栗代橋をアップで。

稜線の頂点にきました。さすがにV字カーブを描くような地形だけに、車両の離合を考慮して路幅は広く取られています。

ふとカーブの外側に目をやると、基礎ごとむき出しで標識が倒れているのが目に入りました。

カーブ注意の警告看板でした。たしかにここはV字の非常にきついカーブなのでこのような標識が設けられるのもわかるのですが、通常廃道ではこの手の標識はそのまま放置されることが多く、あまり基礎ごと引っこ抜いて放置された例というのを見たことがありません。残土置き場ということを考えると、もともとここにあったものではなく、どこかからもってきたものをここに廃棄したものかもしれません。

カーブから千頭側は、大間側に比べて路盤に廃棄された土量が格段に多くなっています。ガードレールとの位置関係を比較して見ると、その量の多さがお分かりいただけるかと思います。

ガードレールの支柱跡の傍らに「非常用」の文字だけが判読できる古く錆びた看板がありました。

元写真を拡大してみると、中央部分が微かに「砂」と読み取れなくも無いような状態でしたので、恐らく、その1に登場した「スリップ防止用 砂 島田土木事務所」同様、「非常用 砂 島田土木事務所」とでも書かれたいたものと思われます。

現道への合流点が見えてきましたが、相変わらず路盤は大量の土砂に埋もれており、路肩のガードレール部以外にはその痕跡をみることはできません。

改良区間が残り僅かとなり、ようやく土砂の量が減り、路肩1/4ほどは当時の路面のアスファルトが顔を出してきました。

振り返ってみます。

そして出口付近では、改めて多めに土砂が積まれ、路幅一杯に現道からの進入を塞ぐようにされていました。

いよいよ現道です。
大間側同様ガードレールが途切れ、ポールで封鎖されています。車両の進入は困難でしょうが、何かあればまだまだ重機で土砂を搬入することは出来そうです。

最後に改めて廃道区間を振り返ります。
舗装路であったことはほとんど想像できない状態です。

丁度この改良区間の分岐部分には、寸又峡エリアへの案内看板が、廃道から人目を逸らすように建てられています。

写真でご覧いただけると分かる通り、掘割区間の手前も広い二車線路となっています。朝日トンネル周辺の改良はこの掘割が基点ではなくもう少し千頭側からスタートしています。

ほんとうに短く目立たない廃道ですが、今回の改良区間の締めくくりとして、次回ご紹介したいと思います。

(続く)

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