谷戸坂の切通(女坂) – 江の島道

前回ご紹介した、古道「江の島道」の男坂。

思わず息をのんでしまうような見事な切通し道ですが、隣接地で開発が進んでおり、今後の動向が非常に気になるところです。
さて、この切通が通称「男坂」と呼ばれていることからも察することができますが、江の島道の鎌倉山越えのルートには、もうひとつ「女坂」があります。

男坂、女坂という名の坂は各地で見られますが、いずれも勾配の急な方が男坂、緩い方が女坂と名づけられています。
この谷戸坂も例外ではなく、前回ご紹介した男坂は山を直登するように進路をとり、最終的に勾配が急すぎて深い切り通しで直進し、なるべく短い距離で山の向こうへと抜けています。
対する女坂は、男坂に至る谷戸を包み込むように突き出した尾根伝いに迂回して鎌倉山を越えるルートで、距離は男坂に比べてかなり長くなっています。

今回はこちらの女坂をご紹介いたします。

女坂への入口は、現在の県道304号、鎖大師青蓮寺の手広寄り、東側の路地を進んだ先にあります。
手前の角を南に折れると谷戸の閑静な住宅街を通って男坂へ、そのまままっすぐ進むと女坂への分岐が見えてきます。

民家の傍らに隠れていくようにして、女坂の上りがはじまります。

古道とはいえ生活道路としては利用されているのか、コンクリート縁石を流用したような階段が設けられています。

階段は、緩やかなカーブで森の中へと進んでゆきます。

カーブを曲がりきると、いきなり切り通しになつています。
男坂と比べれば深さは浅く道幅も広くいものですが、なかなか見事な景観です。そして右側の側壁には、なにやら石垣のようなものが見えます。

どうやら「やぐら」のようです。
「やぐら」とは鎌倉特有の墳墓形式で、掘削しやすい鎌倉の地質の特性を生かし、横穴を穿ちその中に遺体、遺骨を納めたもので、内部には五輪塔などの石塔が安置されています。
鎌倉時代中期から室町時代前期に多く建造され、今でも鎌倉で山歩きをしていると多くのやぐらを見ることができますし、一部は史跡として手厚い保護を受けています。
反面その数の多さから全てを保全することができないため、宅地造成や災害対策で落石防護壁を設ける際などには、文化財調査を行い資料として残した後に埋められてしまうものも見られます。

こちらのやぐらは、中を覗き込むと比較的新しい個人銘の立派な御影石と思われる墓石が安置されていたので、まだ現役の墓所として利用されているようです。
そのため内部の写真は撮影していませんが、御影石の墓石を中心に両脇に多くの墓石が立ち並んでいるのが見てとれました。

やぐらの先には、これぞ鎌倉のみち、といった風情の切通し。
森に囲まれて薄暗く、苔むした鎌倉石の壁に囲まれた古道がゆるやかなカーブを描きながら上ってゆく様は、いつまでも眺めていたい素晴らしいものでした。

振り返ってさきほどのやぐらを。
広めの道幅に、往時は江ノ島への交通路として賑わいを見せたであろう面影が感じられます。

カーブを過ぎると、しばらく道はまっすぐな上りになり、切通しは終わりを告げて左手(北側)が開けてきます。

途中には二箇所ほど、墓地への分かれ道がありました。
その向こうには、このような古道があるとは思えないような、現代的な住宅街が広がっています。この対比もまた、鎌倉の面白さ。

さらに進んでゆくと、切通しというには浅い、掘割のような道形になります。今度は右側へと曲がりつつ、さらに上り道が続きます。
この辺りからは、それまでより若干傾斜が緩くなったからか、それまであったコンクリート縁石の階段はなくなり、より一層古道の趣が増してきます。

見事な巨木。

上るに従って道幅は広がってゆきました。
おそらくは削れて自然に広くなったものと思います。時折地肌から岩が顔を覗かせています。

いよいよ峠のピーク。
周囲は竹林で、枯葉が絨毯のように敷き詰められていました。

ピークを越えると、前方には陽光が眩く光り、鎌倉山の上に広がる台地へたどり着いたことが実感できます。
道はここで二手に分かれており、右を進むと江の島道、左へ進むと休耕田の畦道のような狭い道になっています。
古道へと歩を進めようと思ったら…。

パイロンとポールで道が塞がれ、「通り抜けできません」の看板が。
鎖大師参道 – 鎌倉隧道めぐり」や前回の「谷戸坂の切通(男坂) – 江の島道」でも触れた宅地造成工事の影響が、この女道にまで及んでいるようです。

すぐ先に石塔が見えるのと、目の届く範囲では工事現場など危険な箇所はなさそうだったので、ちょっと失礼して石塔へ。

石塔は庚申塔でした。
建立された時期は石の状態からみて三基とも異なるようです。
三猿に支えられ、幾多の年月この道を見守っていたのでしょうか。

もう少し先へと進んでみましょう。

周囲がかなり開けてきました。
一段下には民家が立ち並んでいます。そして改めて、「この先通行止め 通り抜けできません」の表示。

この先で通行止めになるため斜面を下ろうとする人が多いのか、法面保護を呼びかける注意書きが見られました。
そしてその先には再び石塔群が顔をのぞかせています。

こちらには五基の庚申塔がありました。台座だけ残されたものもあるので、かつては六基の塔が並んでいたものと思います。
こちらも石の状態から見ると新旧入り交じっているようです。

男坂には堅牢地神塔が一基あるだけで庚申塔は見かけませんでしたので、やはりこちらの方が古くからの道筋ということになるのでしょうか。

法面補強に目をつぶれば、背後には宅地が広がっていることが信じられない、タイムスリップしたような光景です。

道は民家の裏庭のようになってきました。そして前方にはこれまでのパイロンとは異なる嫌なものが。

今までのやんわりとした「通り抜けできません」の処置とは異なり、ガードフェンスが強固に行く手を塞いでいます。
表現も「通行止め」から「立入禁止」とより強いものとなっています。

フェンス越しに行く手をのぞき見ると、それまでは踏み跡がありしっかり道と認識できていましたが、ここから先は草が生い茂り、少なくとも今シーズンになってからは全くといってよいほど人が立ち入った形跡がありませんでした。
そして鉄パイプで組まれた柵にネットが張られ、この先は明らかに工事現場であることがわかります。

フェンスの手前に送電鉄塔の管理用に用いられていると思われる踏み跡があったので、そこから隣接する市道に迂回します。

男坂の切通しの少し先のところへ到達しました。
記憶では右手のプレハブ現場事務所の裏手くらいで古道が合流していたと思うのですが、フェンスに囲まれておりよく分かりませんでした。

訪問時は休日で工事が行われていなかったので、現場入口の柵越しに江の島道の方向を遠望してみました。
ここからだと、江の島道は鉄塔よりは右手にあるので、ぎりぎり残っていそうにも見えますし、削られてしまったようにも見えます。

そこで、鎖大師参道の項でもご紹介した鎌倉市のウェブサイトでこの宅地開発計画について改めて確認してみました。
下記リンク先の「手続終了後の計画変更(その2)に関する報告書(参考)」PDFに図面が現況・計画図面が掲載されていますが、「法外道路 鎌倉市道」とされている江の島道は、ものの見事に開発区域内になっています。
上の写真の中央部やや右手の切り込まれた部分がそこに該当するので、既に削り取られてしまっているのは間違いなさそうです。

最後に男坂、女坂の近傍に残る江の島道の痕跡をご紹介します。

谷戸坂切通や鎖大師参道の項で何度も名前が出てきた鎖大師青蓮寺ですが、その境内に江の島道の道標が残されています。
青蓮寺の本堂の裏手、墓苑の片隅にその道標は佇んでいます。石塔の三面に、それぞれ「えのしま道」、「文化六己巳年四月吉日」、「願主 山崎村 □□□□(判読できず)」と刻まれています。
山崎村は現在の鎌倉市山崎で大船と手広の中間に位置しており、鎌倉街道小袋谷から分岐した江の島道の道筋にあたる一帯です。この地に住む誰かが、願いをこめて建立したもののようです。

しかし青蓮寺の境内は元々の江の島道の経路からは外れていますし、鎖大師参道が江の島道の新道的な役割を担っていたとしても、「鎖大師参道 – 鎌倉隧道めぐり」の項でも述べた通り参道隧道の開鑿は大正末期から戦後すぐの時期と推測されるので、刻まれた「文化六年(1809年)」とは時期があまりに異なるので、この道標がもともと境内に立てられていたものなのか、それとも後年移設されたものなのかは判然としません。

しかしながら、この道標もまた、かつてこの地に江の島道が通っていたことを今に記す貴重な証人といえるでしょう。

 

男坂、女坂の切通し区間や庚申塔、そして青蓮寺境内の道標こそ残存しているものの、男坂、女坂ともに道としての「線」は失われてしまうようです。
特徴的な遺構が開発を免れているのは、それはそれで喜ばしいことではあるのですが、やはり道は繋がっていてこそのもの。

「点」だけが残されることに、無念さを感じずにはいられませんでした。

 

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