鎖大師参道 – 鎌倉隧道めぐり

長谷大仏方面と藤沢駅方面を結ぶ神奈川県道32号と、大船駅方面と腰越・江の島方面とを結ぶ県道304号の交わる手広交差点は、鎌倉市中央部の交通の要衝です。
その手広交差点から県道304号を南へ600mほど進むと、左手に寺院が見えてきます。通称鎖大師と呼ばれる青蓮寺です。

青蓮寺は、819(弘仁10)年、弘法大師が東国巡歴を行っていた際に開山したと伝えられる古刹です。
バス停留所の名前にもなっている鎖大師という一風変わった通称は、本尊である弘法大師坐像(国指定重要文化財)の関節が鎖で動くようになっており、そのために「鎖大師」と呼ばれていたことに由来します。

青蓮寺から先の県道304号は上り勾配の切通しで南進します。
その上り坂頂点の少し手前を左手に折れる小道が、かつて小袋谷と江の島とを結んでいた「江の島道」と呼ばれる旧道です。

時は2011年8月。私は鎌倉の隧道めぐりの一環でこの隧道を訪問しました。
写真中央部、鉄パイプ柵にトラ柵が立てかけられているあたりが、旧江の島道「谷戸坂切通し」です。
(こちらについては後日改めてご紹介する予定です)

そしてその左手奥、チラリと影が見える場所に近寄ってみると…。

隧道が口を開けています。
これが「鎖大師参道」です。

二重に掘られた坑口部には、「道参師大鎖」という立派な扁額が掲げられています。
残念ながら洞内は埋めもどされており、私は「ここまで埋められているのであれば内部へ進入しても…。」と思い進入することなく外から眺めるだけにとどめました。
これが将来に禍根を残すことになるとは、この時点では想像もしていませんでした。

その後この隧道について、2013年1月に「山さ行がねが」にてヨッキれん氏が詳細なレポートをアップして下さいました。

このレポートを拝見したところ、埋め戻されたわずかな空間から内部に進入すると、「隧道開通」の字が刻まれていたというではないですか。
さすがヨッキれん氏。やはり穴があったらとりあえず入ってみないといけないという事を痛切に感じました。

私などまだまだ甘ちゃんですね。

そして、もう少し詳細に調査をしようと思っていた矢先、隧道の周囲の植生が伐採され、工事が開始されるとの情報が入ってきました。
その引き金となったのが、数年前からこの地に立てられていた、最初の写真で柵の手前に立っている一枚の看板です。

「中規模開発事業計画」。

鎖大師参道、谷戸坂切通しの奥にある敷地で、以前より計画されていた宅地分譲開発がいよいよ着工することになったのです。

この開発計画については、鎌倉市のウェブサイトに詳細な資料が掲載されています。

こちらのページに記載されている資料、西鎌倉自治会から提出された意見書番号21-128-2には、「3.史跡保護」として、

『谷戸坂切通し』、『鎖大師-津隧道』は手広・津地域の歴史を伝えるものといして(原文ママ)、その保存に留意すること

との意見が提出されていますが、それに対する開発業者の見解書では、

前計画(集合住宅計画)において、鎌倉市の指導に従い切通しを残す計画としましたが、市側に残すための譲歩がなかった為、今回の計画(戸建計画・中規模開発)となり、事業採算および完成宅地の販売面から切通しを存置する事はできません。

と回答されています。

一定規模以上の開発事業は、鎌倉市の「鎌倉市まちづくり条例」に基づき手続きが必要で、それらを経て初めて事業許可が下りるよう取り決められています。
もともとこの場所では、開発事業者は大規模開発事業として集合住宅(マンション)の建設を計画していたところ、谷戸坂切通しの保存について保存を要望する市側との調整が不調に終わったため、計画を見直してややハードルの低い中規模開発事業に変更したようです。

宅地開発に伴い、市道については3mから6mへの拡幅が予定されていますが、「手続終了後の計画変更(その2)」添付の図面では、ちょうど隧道の辺りから山側が切られるように描かれていました。
図面では坑口のある部分は崖地記号になっていて、隧道坑口が記号として描かれていないので拡幅エリアに該当するのか外れるのか、判断がつきかねました。

そこで2013年11月に急遽現地を訪問しました。

まずは2011年8月の写真。
うっそうと茂る森、そして草むらの向こう側に、ちらりと坑口が顔をのぞかせています。

2013年11月。ほぼ同じアングルです。
全く同じ場所とは思えないような変貌ぶり。しかし、坑口の位置と画面左端に写る側溝屈曲部との位置関係をご覧いただければ、ここが同一の場所であることはご理解いただけると思います。

この時点では、法丁張(法面の設計ラインを示す目安として、スケールのように設けられている木組み)の切り土ラインを辛くも逃れて坑口は残存しています。
ただし、坑口よりさらに手前にある法丁張から分かるとおり、最終的には坑口部分をふさぐように完工面が設定されているので、先行きはかなり不安なものと思われます。

本当は、内部に進入してヨッキれん氏が発見した「隧道開通」の刻字部分の拓本を取り、詳細に解析しようと思っていたのですが、このように以前見られたわずかな隙間にさえも残土が埋め戻されてしまい、もはや進入は不可能な状態になっていまいました。

かつて訪れたときになぜ入らなかったのかと、当時の自分を叱りたい気持ちでいっぱいです。

こちらは上の写真の翌月、2013年12月の状況。
山側の地形にはあまり変化は確認できませんが、舗装が剥がされ、路盤が少し掘り下げられています。そして肝心の坑口前には絶望的な空気を醸し出す大きな土嚢…。

坑口を大きめに。2013年11月。

2013年12月。
こうしてこの先、徐々に埋められていってしまうのでしょうか…。

扁額部のアップ。(2013年11月)
皮肉にも伐採と除草、切り崩しによって日光の下でつぶさに観察できるようになっていました。
この風格ある扁額も、この先どうなってしまうのでしょうか…。

冒頭の写真と同じような位置から。(2013年12月)
木々の生い茂る路地といった風情が、ここまで開放的に変貌してしまうとは想像もできませんでした。

切通し側から全体を。(2013年12月)
画面左側の県道304号の坂を下りた左手が、鎖大師青蓮寺です。
隧道は工事中の市道においてあるブルドーザーより少し高い位置にあるので、県道切通しと隧道との位置関係がある程度把握できるかと思います。

工事は着々と進んでいるようですが、何とかこの味わい深い坑口が、保存されて残存することを祈るしかありません。

 

最後に少し考証を。
「山さ行がねが」でも詳しく記されていましたが、まずは地形図上での変遷。

大正十年測図の二万五千分の一地形図による鎖大師周辺。
当然のことながら、まだ1957(昭和32)年に開鑿された現道の切通しは描かれておらず、谷戸坂の切通し道だけが描かれています。
しかし鎖大師参道の位置には隧道の記号は見られません。

出典:参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院) 二万五千分の一地形図「鎌倉」(大正十年測図 同十三年六月二十五日發行)

続いて1960(昭和35)年製版の鎌倉市発行の一万分の一地形図。
こちらには、すでに県道304号の切通しが描かれているのですが、それと同時に隧道部分にも、なにやら道のようなものが描かれています。

県道部分は切通しなので、このような交差をすることは実際にはありえないですね。
地図の製作年次の表記について昭和三十五年「製版」とあるので、測図自体は県道切通し開鑿以前にされていたものについて、後から県道を追記した際に隧道を消し忘れたのでは、と推測しています。
現在のところ、私が確認した範囲ではこの地図が鎖大師参道の痕跡を残す唯一のものです。

出典:鎌倉市役所発行(中央地図株式会社作成) 一万分の一地形図「鎌倉市全図」(昭和三十五年製版 昭和四十一年二月)
(鎌倉市立中央図書館蔵)

上の地形図と同じく鎌倉市発行の一万分の一地形図。こちらは1968(昭和43)年調整版です。
県道304号と谷戸坂切通しは描かれていますが、参道の隧道は抹消されてしまっています。

出典:鎌倉市役所発行(中央地図株式会社作成) 一万分の一地形図「鎌倉市全図」(昭和四十三年三月調整)
(鎌倉市立中央図書館蔵)

 

地図の上ではほとんど痕跡を辿ることが出来ないので、何か記録は残っていないかと青蓮寺を訪問してお話を伺いました。
しかし、残念ながら青蓮寺にも資料など記録は一切残っておらず、いつごろ施工されたものかも分からないようです。

対応してくださった方によると、「鎌倉山の開発とほぼ同時期のはずなので、大正末期から昭和前期ではないか」とのことでした。寺院にも記録がないようですので、正確な年代の特定はかなり困難な状況と思います。

ただ、「山さ行がねが」の、洞内の刻字に残されていた「全宣僧正代」の文字から、草繋全宣氏が青蓮寺の住職であった戦前から1950(昭和25)年までのいずれかの時期に開通したという推論と上記のお話とは一致するので、この年代の施工であることには間違いなさそうです。

 

ここ数ヶ月で、鎖大師参道を取り巻く環境が激変するのは間違いありません。もしご興味のある方は、一刻も早く訪問されることをお勧めいたします。

 

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