五岳荘隧道と宝戒寺トンネルについてのお話 – 鎌倉隧道めぐり番外

以前このブログでもご紹介した五岳荘隧道と宝戒寺トンネル(大町の隧道)。

このすぐ近くにある二つの隧道について、鎌倉市中央図書館で調べ物をしていたら面白いエピソードが見つかったのでご紹介いたします。

大町の隧道(宝戒寺トンネル) – 鎌倉隧道めぐり

五岳荘隧道 – 鎌倉隧道めぐり

 

過去の記事でも記したとおり、かつて私は大町名越に住んでいました。

この二つの隧道のうち、五岳荘隧道は私道ですし、当時は鬱蒼とした林の中に洞内がうすぼんやり蛍光灯で照らさて不気味に口を開けていて、子供たちの間では怪奇スポット的な受け止め方をされていたために、結局私は洞内に入らずじまいでした。
今にして思えば、あの頃怖くて入れなかったこの隧道に、意を決して入っていればと本当に悔やまれます。

一方宝戒寺トンネルは、大町名越から八幡宮方面へ行くのに非常に重宝しました。
若宮大路のある鎌倉の中心部と名越との間には祇園山という標高60mほどの山が横たわっており、これを迂回するには宝戒寺隧道がなければ元国道134号(現県道311号)へ出てぐるりと回らねばならないのです。
当時は車での通行は困難でしたが、徒歩でこの隧道を越えれば八幡宮はすぐそこ。
素掘りでジメジメとした薄暗い隧道を、恐怖心をごまかすために大声で歌ったりキャーキャーと喚声を上げながら通り抜けたのはよい思い出です。

このように私にとってはどちらも非常に思い出深い隧道なのですが、それは私だけの思いではなく、名越に住む人々には、これらの隧道が心に刻まれているようです。

鎌倉市中央図書館の蔵書に、「大町名越ゲェもネェ話」という本があります。
吉田友一さんという方が、昭和初期の大町名越にまつわるゲェもネェ(大したこともない)話を綴っています。しかし標題はゲェもネェとなっていますが、内容は郷土に対する愛情と懐かしさが詰まっており、かつての住人としては非常に読みごたえのある読み物でした。
1993年に刊行されたこの本は、なんと筆者の手書き。しかしながら、活字でなく手書きで記されているがゆえに、より一層温かみを感じさせてくれます。

その一節に、「宝戒寺トンネル」と題された話がありました。
下記に一部引用させていただきます。

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宝戒寺へ抜けるトンネルの手前一帯は、西ヶ谷といって畑ばかりであった。
トンネルの手前の小路を左折すると小さなトンネルがあり、その山の高台に加藤新松さんが住んでいた。三井建設の下請等されていたときいたが「トンネルの加藤」と呼ばれた程のトンネル掘りの名人だったそうで、各地のトンネルを手掛けられたらしい。
昭和の初め、不況時代に満州から帰国され居を鎌倉に構えられたが、職人は仕事もなく困っていたので、その苦況も少しは救えるだろうと、トンネルを掘り、高台に我が家を建てたという。
その上、町の人達も便利だろうと、宝戒寺へ通ずるトンネルを私財を投じて造られた。
今では八幡宮への近道として我々も大いに助かっている。

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ここに記されたトンネルというのが宝戒寺トンネルであり、「トンネルの手前の小路を左折すると小さなトンネルがあり」というのが、五岳荘隧道ということになります。隧道の向こうにある邸宅には加藤さんというトンネル掘りの名人が住まわれており、五岳荘隧道は、昭和の大恐慌時に困窮する職人の生活を下支えするための事業であったことがわかります。

さらに、地元の方のために私財で宝戒寺トンネルを掘削するという篤志家。
昭和初期、おそらく宝戒寺トンネル開通前と思われる図面をみると、どうも九十九折の峠道になっていたようです。
かつて一度だけ祇園山のハイキングコースを歩いているときに道を外れてしまい、たまたまこの宝戒寺トンネルのところに出てしまったことがあるのですが、稜線づたいに歩くハイキングコースからトンネル坑口までの間は、かなり急な斜面であった記憶があります。
もしこの斜面に道がつけられていたのだとすると、徒歩でもかなり険しく、さらに荷物の往来はほとんどできなかったのではないかと思われます。
そのため、この隧道の開通は名越の人々に大きな利便をもたらし、かつての私もその恩恵に与っていたというわけです。

それにしても、

トンネルの加藤

という愛称は実に格好良いではないですか!
隧道工事に掛ける男の生き様を感じさせるような。

ところでこのお話、まだ続きがあります。
さらに興味深い内容なので、続いて引用させていただきます。

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ご子息さんの話では、八幡宮前にお妾さんが居て、非常に加藤さんの仕事に協力したそうで、彼女に会いに行くにも便利だと掘った いわば「妾の通い道」と笑っておられたが、明治の人は一本筋が通っているなと感心させられた。掘られた残土は、中沢さん前の畑一帯に盛土され、長いことトロッコが放置されていて遊びに使われた。

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単に地元のために…というだけではなく、お妾さんに会いに行くために隧道一本掘削するとは実に豪気。
そして私たちが歩いたあの道は、「妾の通い道」であったのですか…。

明治は遠くになりにけり。
今ではとてもあり得ない話ですね。著者の吉田さんも書かれていますが、実に明治の人の気骨というか度量の大きさをしみじみ感じるのでありました。

こちらの本はコピーによる複写製本されたものが開架されています。禁帯出ですが、鎌倉市中央図書館にゆけばどなたでも閲覧できますので、大町名越の風俗に興味を持たれた方は、一度ごらんになってはいかがでしょうか。

参考図書:「大町名越ゲェもネェ話」 吉田友一著 鎌倉市中央図書館蔵