市代橋

名古屋市街から設楽町、東栄町といった奥三河の町々を訪れる時には、足助から国道420号、257号を経て田口の街へ入るルートを良く利用します。
足助からの国道420号と新城から北上してきた国道257号が合流し、旧田口鉄道の稲目トンネルを利用した県道389号に突き当たるまでの区間にある、一本の橋が以前から気になっていました。
今回は、その橋をご紹介したいと思います。

国道から橋を眺めます。
こうしてみると川が写っていませんし、欄干も目立たないので単なる未舗装道路にしか見えないかもしれませんが、コンクリート橋です。

もう少し近寄って。
両側に親柱があるので橋であることがお分かりいただけると思います。ちょっと不思議なところがありますが、それについては後ほど言及するとして、まずは橋といえば恒例の親柱チェックから。

国道寄り、右岸上流側の親柱です。草に覆われ、角が欠けるなど原型がかなり損なわれていますが、アールデコ調のデザインの片鱗を伺うことができます。
銘板は見当たりませんでした。

続いて右岸下流側の親柱。こちらは草が少ないのでよく状態が観察できます。
やはりかなり磨耗が進んでいますが、アールデコ調のデザインの面影はお分かりいただけるものと思います。
そして、こちらにも銘板は見られませんでした。

対岸の親柱のチェックがまだですが、「これでは橋の名前がわからないな…」と思っていたところ、下流側に

「川をきれいにしよう 市代橋 寒狭川上流漁協」

という看板が立てられていたので、この橋の名前が「市代橋」であることが分かりました。

橋の上に進みます。
私が非常に気になっていたのは一目で尋常ではないと分かるこの光景です。
高欄がことごとく破壊され、失われているのです。最初に見かけたときは、生えるがままにされている植物といい破断した高欄といい、廃橋かとすら思いました。しかし特に通行止めの処置もされておらず轍もついており、この道の先には、今でも利用されているのかは分かりませんが別荘のようなものが数棟あり、さらに地形図を見ていると、道を進んだ先に須山という集落があり、あくまで現役の橋として供用されています。

振り返って国道側を。
このように国道からも非常によく見えるので、この橋の姿はいやが上にも目に留まるのです。
現役橋であれば、破壊された高欄に対して修復したり、予算がなくとも安全上ガードレールを設けるなどの措置が取られてもよさそうなのですが、この橋についてはそうした対策が一切なされていません。

途中、上下流二本ずつ支柱が残されています。残った柱は上部にRの付いた優雅なデザインです。
破壊されている柱とは残存部分からすると形状が異なっていたものと思われます。

残存している柱をアップで。
親柱のデザインといい、完全な形で残っていればかなり風格のある橋であったことが想像されます。

直線で構成された親柱と対照的な柱の優雅なデザイン。

左岸側にやってきました。
こちらにも親柱が残存していました。

左岸側からの橋の全景です。
やはり破壊された高欄が連続する光景というのは、違和感というか恐怖感というか、非日常的な感覚を覚えざるを得ません。

上流側の親柱。左岸側の方が状態は右岸側に比べて磨耗や剥落なども少なく、良好なようです。
そしてこちら側には銘板が残っていました。

上流側は、錆で肝心なところが判読できませんが、先の漁協の看板から「いちしろはし」あるいは「いちしろばし」であると推測されます。

続いて下流側。こちらも良好な状態を維持しています。

銘板は「昭和七年四月改築」。昭和初期のかなり古い橋であることがわかります。
しかも「改築」ということは、それ以前に既に建造されていたと考えられますが、以前ご紹介した「足助大橋」のように旧橋に対して新たに架橋したものを「改築」とした例もあるので、このコンクリート橋が改築を受けたのか、旧橋に替わって架橋されたのか、どちらの可能性もあると思われます。

川へ下りて側面から橋を眺めます。

破断した高欄をはじめ、橋桁からは植物が思うがままに伸びています。

両側二本だけ残ったRの付いた高欄支柱は、いずれも丁度橋脚の上に位置していました。
それにしてもこの状態を初めて見て、現役で供用されている橋とはなかなか思えませんよね…。

構造自体は、一般的なコンクリート桁橋のようです。

橋脚部をアップで。
下から眺めても、残された支柱のRを重ねたデザインは優雅に見え、廃橋同然の周囲の有り様とは対照的です。

左岸側の橋台は、川床までしっかりと造り込まれていました。

対して右岸は国道自体が岩壁を削るように造られており、橋台も岩盤を利用しており基礎の下部は、岩盤と一体化しているようです。

ところでなぜ高欄が失われた異様な光景なのか。
最初は洪水などの災害等で高欄が破壊されてしまったのかとも思いましたが、それだけの水流に襲われたのであれば、背の高い支柱二本だけが残るようなことはなく、むしろ落橋してしまっていてる方が自然なので、それは違うな、と思いなおしました。

本当の理由については、まだ一次資料を見つけられていないのですが、この橋について言及されたいくつかのウェブサイトやブログなどのレポートによると、高欄部に利用されていた金属が戦時中の金属供出の対象となり、支柱を破壊して取り出したという説があるようです。

残存する支柱の横側を見ると二つの穴が空いていることから、恐らくは鋼管が片側二本ずつ用いられていたものと察せられるのですが、この程度の長さの橋で高欄を破壊してまで取り出すには金属量が見合わないような気もします。

それだけ第二次世界大戦中の資材不足が逼迫していたということなのかもしれませんが、戦後になっても仮復旧すら行われずそのままの状態を保持しているという点も併せて、謎の多い橋であります。
丁度川を挟んで設楽町と新城市の境界にあたる場所に位置するため、その帰属・管理の問題などが影響しているかもしれません。
引き続き調査を続けて行ければと思います。

最後に余談ですが、河原に下りての撮影中、花崗岩の巨石に穿たれた甌穴を見つけました。
形もよく良好な状態で残されているので、橋だけではなくこちらの方も必見です。

場所はこちら。