堤石隧道

国道473号は、愛知県蒲郡市を起点として、静岡県牧之原市へと至る総延長265.6kmの路線です。
ごく自然に考えれば、東海道の海沿いにある二つの町を結ぶ路線なので、沿岸部を通るルートのような印象を受けますが、473号という非常に大きい番号の国道であることと延長265.6kmと非常に長いことから勘のよい方はお気づきになるかと思いますが、この国道473号は、1993(平成5)年4月にそれまでの愛知県道36号阿蔵本宿線や静岡県道・愛知県道7号佐久間設楽線、静岡県道46号水窪佐久間線、静岡県道36号金谷中川根線などを繋ぎ合わせて指定された新しい国道です。
県道の名称からも分かるとおり、沿岸の国道23号、1号、150号と進めば105km程度で到達できるところを、愛知・静岡両県の山間部を羊腸たる山道で結んでいます。

愛知県設楽町と東栄町を結ぶ区間には岩古谷山という峻険たる山が立ちはだかっており、ここに今回ご紹介する「堤石隧道」があります。
この区間は設楽町誌によると、下記の様に昭和に至っても馬車の通行すらできない道だったようです。

「昭和三年(一九二八)ごろには、田口から和市の入り口(杉ノ窪)まで馬車がやっと通行できる程度の道路が通じていた。しかし、それ以外の道路はすべて徒歩道で、東は堤石峠を越えて平山・神田方面へ、北はグミンタ峠を越えて小林方面へ、南は川沿いに荒尾・塩津方面へ、西は田口方面へと往来したものであった」
設楽町誌 通史編(2005年 愛知県北設楽郡設楽町編) 685ページより引用

2015(平成27)年6月に設楽バイパスが開通し、岩古谷山の難所の交通を長く支えた峠の区間が旧道化したため、バイパス開通後の状況を確認するために、開通前の5月と開通後の7月に堤石隧道を訪問しましたのでご紹介いたします。

開通前、5月の東栄町側。
バイパスと現道(当時)の分岐手前に、案内看板が掲げられていました。7月の開通後には撤去されていました。

看板の地図部分を拡大で。堤石隧道とバイパスの関係が非常によくわかります。
特に、道幅が狭くカーブも急だった東栄町側での効果が大きいです。

トンネルの設楽町和市側の完成イメージ。
後半に実際の写真も掲載しているので、比較してみると面白いかもしれません。

5月の東栄町側の状況です。手前の道も改良され、バイパスへ進むのが当たり前のような線形になっていますが、この時点ではフェンスに阻まれ、いやでも狭い山道へと誘導されました。

同じ場所の開通後、7月の状況です。
5月とはうってかわって、注意していないとかつての国道に気づかないほど自然に高規格の道路が続いています。
カーブを描いて旧道へと誘導していた白線を消した跡がうっすらと残っているのが、唯一の面影です。

そして細く長く続く山道を登った末に辿りつく堤石隧道。
坑口がカーブの先にあり見づらく少々危険です。
途中の道は狭く駐車するスペースも少なく、さほど際立った特長もない狭い山道なので、写真を撮っていません…。

「トンネル内 点灯せよ」

の電光警告板もかなり色褪せてくたびれています。

隧道に注目したいところですが、それより前に正面に石碑が立てられているのが目に入ってきます。

「精神一到能成功 昭和九年十二月十日 子爵 齋藤實 書」

と刻まれています。
精神一到とは朱子の「精神一到何事不成」に由来し、精神を集中して物事にあたれば成し遂げられないことはない、という意味です。
「能成功」をここに重ねることで、「精神を集中して物事にあたり、よく成功する」というような意味を表しているのでしょうか。

特に隧道開鑿を記念するような文言はありませんが、堤石隧道の開通も1934(昭和9)年なので、開通を記念する碑と見て間違いないでしょう。

裏面には、「田口町 関谷守男 振草村 氏原久米衛」両氏の名をはじめ、田口町長、振草村長、御殿村長ほか、何らかの形で尽力した方々の名が刻まれています。

そしていよいよ隧道です。
「道路トンネル大鑑」によると、堤石隧道の仕様は下記の通りとなっています。

延長:536.0m
車道幅員:4.0m
限界高:4.0m
竣工年度:S9
素掘覆工の別:素掘コンクリート吹付
舗装:済

「大鑑」に記載されたデータの通り、高さ4.0mの規制標識。補助標識で制限区間は「堤石トンネル内」と記されています。

坑口は直上に岩壁が迫り、落石防止のためかコンクリート覆工されています。

ポータルはコンクリート製ですが、アーチ環や要石も再現されており、80年の時を経て煉瓦隧道にも劣らぬ風格を備えているように感じられます。

扁額は右書きで「堤石隧道 昭和九年拾壱月竣功」と記されています。
揮毫者の名前は記されていないので不明です。

坑口から暫くの間は、コンクリート巻立となっています。

しかしそれも20メートル程度でしょうか。素掘りにコンクリート覆工を施した形態に変わります。

上半分アーチ部はコンクリート覆工されていますが、下半分は素掘りのままです。
洞内には一定間隔で蛍光灯が設置されていますが、上の写真はやや明るめに調整してあります。

実際には、照明の少ない箇所ではこの位の明るさというか暗さです。
あまり人が徒歩で通行する区間ではないため、隧道内を走行する車はかなり速度が高めです。その上この明るさなので、徒歩で通行しているとかなり心許なく、またヒヤッとする場面もありました。
もっともドライバーの側からしても、こんなところを人が歩いていること自体想定の範囲外でびっくりしていた事でしょうが…。(苦笑)

536mと、当時としては長めの隧道の終端に近づいてきました。
ここからはコンクリート巻立が復活し、坑口が近いことがわかります。

逆方向、設楽町側坑口を背にして。

設楽町側は、残念ながら過去に大きな崩落があったのか、頑丈なコンクリート製造のロックシェッドが坑口に連結されてしまっています。
恐らく東栄町側と同様のデザインだったと思われますが、アーチ環は何とか見えるものの扁額はじめその他の構造物はすべてコンクリート壁に遮られて見る事ができないのが残念です。

洞内には非常電話が3箇所設けられていました。
1934(昭和9)年製造の隧道と、ちょっと懐かしい雰囲気もしつつ現代らしさを感じさせるロックシェッドに設けられた非常電話の対比が面白いですね。

設楽町側は隧道坑まで二車線で整備されていましたが、ロックシェッド内はカーブしており実際の隧道の起点が見づらいこと、また隧道の幅が狭く大型車輌の離合は困難なため、センターラインの先に停止線を設けて明示的に注意を促しています。

ロックシェッドと隧道、センターラインと停止線の関係を、ちょっと引いた位置から。

ロックシェッドの入口です。かなり肉厚に建造されていることがわかります。

傍らにはなにやら道があり、「すわ、旧道か」と思いましたが、東海自然歩道でした。
前述の通り町誌によると隧道ができる前は堤石峠を越えていましたが、堤石峠は隧道よりかなり北側にありました。また地形図をみると分かりますが、隧道周辺はかなりの密度で岩崖記号が記されており、非常に峻険な地形であることがわかります。
ですので、もしかしたらここにも杣道程度の道はあったかもしれませんが、峠越えの「旧道」と呼べるものではないものと思います。

ロックシェッドの扁額です。
隧道ではないので、「堤石洞門」と記されています。

いつごろの建造かは扁額には記載がなく、銘板も二枚上の写真の警告看板「大型車」の「型」の字の右側に、それが取り付けられていたような跡があるのですが、肝心の銘板自体は見られず、詳細は分かりませんでした。

洞門入口全体を引いたアングルから。
こちらにも「トンネル内点灯せよ」の電光警告板、そして先にご紹介した停止線の存在を示す「この先20m大型車停止位置有り」、更には制限40km、追い越し禁止、幅員減少の各標識や落石注意の立て看板など、地味ながらかなり賑やかな状態になっています。

さらに山の上へ目をやると、岩古谷山の岩壁が目に入ります。
これでは確かに、立派なロックシェッドで坑口を防護しないと非常に危険な状態です。

カーブの手前部分にも、大型車交互通行不可の看板が立てられていました。
設楽と東栄を結ぶ主要な道でありながら隧道がボトルネックとなっていたため、大型車が出会い頭に行き詰まるという事案が多く発生していたのかもしれません。

現在は旧道となった5月現在の国道と、バイパスの設楽町側の分岐点の状況です。
東栄町側同様、既に線形はバイパスへ直進するのが自然なように改良済みで、フェンスによって無理やりカーブのきつい道へと追いやられるようになっていました。

開通後、7月の状況です。フェンスはすっかり取り払われ、もともとこうであったかのような顔で快走する車を迎えています。

岩古谷トンネルの坑口を引いて見てみます。
冒頭にご紹介した案内看板の予想図と比較してみて如何でしょうか。
個人的にはかなり予想図は正確に雰囲気を再現しているように感じられました。

坑口のデザインは極めてシンプルで、少しザラツキのあるコンクリートパネルで覆われていました。

扁額。特に際立った特長のない、現代風のものです。
揮毫者の名前がなく誰が書いたものかはわかりません。

洞内は広く、自転車が余裕ですれ違えるほどの歩道も用意されています。
もっとも徒歩での往来がさほどあるとは思えませんし、坂好きのサイクリストは敢えて旧道を選ぶと思うので、この歩道にどの程度の通行量があるのかは興味のあるところです。

堤石隧道は直線で入口から出口が見えていましたが、岩古谷トンネルは南側でカーブしているので出口を見ることはできません。
それにしても、堤石隧道から80年の年月を経ているので当然といえば当然なのですが、隧道掘削技術の進歩には目を見張るものがあります。

東栄町側の坑口。デザインは設楽町側と同様です。
こちらは道路南側に作業用の広いスペースがとられていました。

岩古谷トンネルの扁額です。
設楽町側のものとは違う書体で、こちらの方がかなり独特で印象深いものとなっています。

バイパスの開通は2015(平成27)年6月ですが、銘板によると2014(平成26)年3月には既に岩古谷トンネル自体は竣工していたようです。
隧道の仕様は、延長1,287m、幅10.75m、高さ4.5mで、高さ以外は堤石隧道の倍以上ということになります。

最後に地形図で変遷を追ってみましょう。


大日本帝國陸地測量部発行 1:50000 「田口」(昭和11年7月発行) より引用

まずは1936(昭和11)年7月発行の地形図です。こちらは発行年には既に堤石隧道が開通している筈ですが、改訂内容が要部修正で、隧道の補入が間に合っていなかったようです。

堤石峠には里道の記号が描かれており、丁度鞍部に道が通されており、かつての主要な交通は和市から山沿いに振草村の平山、桑原へ向かうルートだったようで、黒倉は谷奥の行き止まりに位置する格好になっていました。


地理調査所発行 1:50000 「田口」(昭和35年7月発行) より引用

戦後の改訂で隧道が描画されました。堤石峠の旧道は実線に変更され、黒倉から旧道の途中に合流し、平山、桑原へと至る道が新たに設けられていることが分かります。


国土地理院発行 1:50000 「田口」(平成8年4月発行) より引用

現行の最終版となる1996(平成8)年発行版です。
堤石峠の鞍部にあった旧道は姿を消し、代わりに登山道とみられる点線歩道が、峠北側のピークへ向けて三方から伸びています。


地理院地図(国土地理院ウェブサイト)より引用

そして地理院地図に反映された、バイパス開通後の様子です。
岩古谷トンネルは、堤石隧道の北側、岩古谷山ピークのほぼ直下を進路としていることがわかります。
冒頭の改良案内看板でも分かりますが、設楽町と東栄町の移動が飛躍的に容易になったことが図上からも実感できます。

バイパスを実際に通行した感想としては、やはりそれまでは特に堤石隧道から東栄町神田までの狭くカーブの多い区間で気を遣いながらの運転で、やや疲れを覚えることもありましたが、バイパスは勾配もすくなく直線的に快適に走行できるので、ストレスや事故のリスクからは解放されたと思います。

ただ、やはり先人の築いた土木・建築構造物に関心を持つものとしては、堤石隧道の行く末が気になるところです。
今のところは以前と変わらず供用されており、幸い生活道路としても機能をしているので、致命的な災害が発生しない限りは現状を維持するものと思います。

昭和初期、峻険な岩山に立ち向かい「精神一到能成功」を具現化して開鑿されたこの隧道が、末永く地域交通に活用され続けることを願いたいと思います。

 

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