旧熱塩駅 日中線記念館

国鉄日中線は、蔵の街、ラーメンの街として知られる福島県喜多方から、北にある温泉の街熱塩を結ぶ11.2kmの路線でした。
路線は熱塩までの営業でしたが、路線名は熱塩から4kmほど北方の日中温泉にちなんでおり、さらに元々は大峠を越えて会津と米沢を結ぶ路線として計画されていました。
ところが戦後まもないころから、運行本数は一日わずかに朝・夕・夜の三往復のみという過疎路線で、「昼に走らないのに日中線」と揶揄される赤字ローカル線となってしまっていました。
1980(昭和55)年に成立した国鉄再建法に基づき指定された特定地方交通線の第一次廃止対象路線に選定され、1984(昭和59)年3月末で廃線となりました。

私自身は現役時代に乗ったことはありませんでしたが、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」に登場する日中線の描写が、ひどく印象に残っていました。

「熱塩に定刻の19時00分に着いたときには、駅の裸電球に背を向けるとかすかにあたりが見える程度まで暮れ落ちていた。それでも熱塩の駅舎の大きなシルエットは北欧のそれに似ていて、二段になった屋根の裾の曲線が美しい。しかし無人駅となって久しいのだろう、無残に荒れている。ホームはもとより線路内にまで雑草が茂っている。いまは列車が停車しているからよいけれど、この列車がなかったら、誰が見ても廃線、廃駅としか思わないだろう。」

「上り列車の客は一人もいなかった。車掌が駅灯を消すと、熱塩駅は化物屋敷のようになった。駅ごとに車掌が荒れ果てた駅舎の電灯を消しては発車する。電灯を消すために停車するようなものである。」

(出典:宮脇俊三著「時刻表2万キロ」 角川文庫 p220)

薄暗い闇の中に廃墟然とした洋風の駅舎が佇む様が、とても寂しいものとして私の心に深く刻まれていたのです。

宮脇氏がこの旅で日中線を訪れたのが1977(昭和52)年の4月。それから36年の時を経た2013(平成25)年の4月、熱塩駅を訪問してみました。
熱塩駅は、現役当時は荒れ果てていましたが、皮肉にも廃線後に日中線資料館として整備され、現在でもなお欧風の美しい姿を残しています。

モルタルと石積みを併用した壁面、Rの付いた深い三角屋根、縦長の格子窓。
眺めているだけでほっとするような温かみのあるデザインです。

入り口部分は円形屋根になっています。

改札口。

「日中線記念館」、「熱塩駅」の看板が目立ちます。
改札ラッチは当然木製です。

少し左に振って改札側を。出札窓口は二箇所あったようです。左手の一段低いカウンターは、手荷物扱いでもしていたのでしょうか。

待合室。高い天井と格子窓が特徴的。今は本来の椅子だけでなく、大きな木製のテーブルと椅子が増設されて休憩スペースになっています。

駅事務室内は資料館になっています。往時の看板や切符、用具、グッズなどの貴重な品々が陳列されています。

出札窓口。硬券のホルダーが並ぶ懐かしい光景。

そして硬券といえばダッチングマシーン(日付印字機)。これは菅沼タイプライター製。

改札口からホーム側に出て裏手に回ります。ホーム部分の軒に大きなRがついています。

方杖も曲げ加工された木材が利用されていました。

ホームの端には駅名板。非常に状態がよいので、定期的に書き直しをされているのではないかと思います。

構内のはずれには、除雪車と旧型客車が保存されていました。

旧型客車の車内。
木造の背もたれの椅子。ニスの輝きが美しいです。

そして除雪車内部。実用一辺倒の働く車両のインテリア。むき出しの機器類に胸が高鳴ります。

無骨な中にも旋回窓が目玉のようで愛嬌のある顔立ち。

反対側、喜多方方面は道路として整備されていますが、警報機が残存(保存?)されていました。

その先には円形の広場が。かつての転車台の跡です。

日中線はSL運転時代、当初はこの転車台を利用して機関車の転向を行っていたのですが、距離が短くバックの運転でも支障がなかったため、戦争の影響で使用が中止されたそうです。
そのため、この転車台自体が活躍したのはごく短い間だけだったようです。

現役時代よりもむしろ廃止後のほうが整備が行き届いているというのは複雑な心境ではありますが、この美しい駅舎が地元に愛され、きちんと保存が続いてることに敬意を表したいと思います。

 

場所はこちら。


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2件のコメント

  1. これは貴重な写真をありがとうございます。

    …荒れていますね(涙)

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