川角橋

前回までご紹介していた「川角トンネル廃道」。

その入口となる林道小田線起点の手前に、前回徒歩道の痕跡を辿る際に車を停めさせてもらった、ちょっとした空き地があります。一部は舗装されており、道のようになっています。
そしてそれを塞ぐように立ちはだかるガードレールと「通行止」の標識。

行く手には三弦構造の水道橋と思われる橋梁が渡されていますが、明らかに道路橋の遺構のように見られます。

これが国道473号川角橋の旧橋です。
詳しい歴史は後述することとして、まずは遺構を観察してみましょう。

橋はフェンスで塞がれており、内部に入ることはできません。

横に回って観察してみます。橋台と欄干が残存し、それを利用して水道橋が設置されていることがよく分かります。

橋台の上には、色褪せた「一級河川 大千瀬川 愛知県」の看板が残存していました。
奥に見える真っ赤な桁橋が現在の川角橋です。

川床へ下りてみます。見事に橋台部分のみが残存し、桁部分は完全に撤去されています。

上流側、下流側、共に欄干は残存しています。

現在の水道橋は中間に橋脚を1本配置した2スパンで大千瀬川を渡っています。
対岸の左岸側にも橋台は残っていますが、こちらは嵩上げされた現道に大半を占有されてしまっていました。

現在の川角橋。
二車線で脇に歩道が別に設けられた、ごく一般的で快適な橋梁です。

真っ赤な桁がよく目立つ現在の川角橋は中間に橋脚を1本だけ設けた2スパンで大千瀬川を跨いでいます。

地形図で確認してみます。

国土地理院発行 1:25000 「三河本郷」(平成6年12月発行) より引用

現在は国道473号として、緩やかなカーブを描く快適な二車線路で大千瀬川の両岸に広がる川角の上川角、下川角地区を結んでいる様子が描かれています。

国土地理院発行 1:25000 「三河本郷」(昭和58年9月発行) より引用

国道昇格前の状況です。
この道路は県道本郷佐久間線→主要地方道設楽佐久間線→国道473号と昇格してきましたが、まだ主要地方道だった昭和58年当時は、下川角地区までは拡幅が進んでいたようですが、川角橋手前から北側は狭い道であったことが窺われます。

川角橋の歴史を振り返る資料として、1988(昭和63)年11月に東栄町下川区の下川史編纂委員会によって編集、発行された「下川邑誌」があります。

これによると、江戸期にはこの周辺の橋は「ビタビタ橋」と呼ばれる、川の浅瀬に石を集め、竹や太い蔓などで結び合わせて台を作り、その上に丸太を並べて渡した程度の簡易なものが大半で、大雨などで水嵩が増すとすぐに流されていたようです。

文久年間のものと思われる地図には、すでに川角周辺にはいくつかの橋が見られましたがいずれも「ビタビタ橋」で、この川角橋が架橋されている上川角足神から下川角大津の地点にも架橋されていたようですが、かなりの頻度で流出していたようです。

川角橋の上流で大千瀬川を渡る下川橋という橋があるのですが、その下川橋は1893(明治26)年2月頃に長さ33間(約60m)、幅9尺(約2.7m)の吊橋として架橋され、当時は鸚鵡橋と称されていたようです。
その頃川角地区でも、長さ28間(約51m)、幅9尺(2.7m)の木橋を架橋しており、眼巌橋と名づけられました。この橋が現在の川角橋の前身にあたる橋になります。そして鸚鵡橋は五年後の1898(明治31)年に老朽化のため架け替え工事が行われ、眼巌橋も同年10月に架け替え工事が行われたようです。

しかし1904(明治37)年7月にはこの地区を襲った豪雨により鸚鵡橋が流失。1905(明治38)年5月には眼巌橋が、翌年3月には鸚鵡橋の架け替えが行われました。
そして1920(大正9)年4月にこの道が本郷佐久間線として認定されると、1922(大正11)年6月に鸚鵡橋が木造で拡幅して架け替えが行われて初めて自動車の通行が可能となり橋名も下川橋に改称、更に1925(大正14)年10月には眼巌橋も架け替え工事が実施され、眼巌橋もこの時点で川角橋に改称されました。

1930(昭和5)年にはそれまで木橋だった下川橋(鸚鵡橋)が長さ51m、幅5mのコンクリート永久橋に架け替えられて本郷から川角までバスが通うようになり、1931(昭和6)年には川角橋も長さ48.4m、巾5mのコンクリート永久橋に架け替えられました。

今回ご紹介した遺された川角橋の橋台は、このとき架橋されたコンクリート橋の名残りです。

「下川邑誌」には、完成当時の川角橋の写真が掲載されていたので引用いたします。
引いたアングルなので細部が分からないのが残念ですが、四径間の橋であったことが分かります。

「下川邑誌 (1988年 下川史編纂委員会編 愛知県図書館蔵)」
100ページより引用。

似たアングルで現在の状況を。
現橋のあたりが、かつての眼巌橋のあった辺りとみられます。

「下川邑誌」には、下川橋の写真も掲載されています。こちらは遠景のほかに袂から撮影した写真も掲載されているので様子がよく分かります。

「下川邑誌 (1988年 下川史編纂委員会編 愛知県図書館蔵)」
97ページより引用。

昭和初期という時代を反映してか、親柱がアールデコ様式であったことがわかります。

今回は生憎下調べをせずに訪問したので旧下川橋(鸚鵡橋)の状況は全く確認しておらず、写真もないのですが、Google Street Viewで確認する限りは、旧川角橋同様に水道橋の橋台として流用されているように思われます。


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旧川角橋の親柱は全て橋台からは撤去されていますが、四本全てが川角橋北側にある川角集会所の駐車場の奥に保存されています。

川角橋の親柱。

下川橋と川角橋は、鸚鵡橋、眼巌橋と称されていた頃から、昭和初期の永久橋架設までの間、兄弟のようにほぼ同時期に架橋と架け替えを頻繁に繰り返しており、親柱のデザインも自ずと近いものになったのでしょう。

それにしても川角橋、下川橋の明治から昭和初期にかけての架け替えのペースは少し異様とも思えるほど短い間隔でした。今回言及しただけでも1893(明治26)年から1930(昭和5)年までの40年足らずの間に5回も更新されています。

それだけ大千瀬川の水害が多かったのか、あるいは予算などの関係で十分な強度の橋を得るに至らなかったのか、あるいはその両方なのかは分かりませんが、中央構造線のほぼ直上にあるという地勢的な環境も含め、その経緯については非常に興味深いものを感じます。

場所はこちら。


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