国道151号 市原トンネル廃道 その2 (海老島隧道)

市原トンネルの廃道、前回からの続きです。

市原隧道を抜けると、道は緩やかなカーブを描きながら川に沿って進みます。

直線区間がないまま、次の隧道が顔を覗かせてきました。
こちらも市原隧道同様、カーブの頂点がトンネルとなっているので、現役当時は危険度の高い場所だったと思われます。

「カーブ注意」の警告看板。

海老島隧道です。こちらの隧道も、坑口はフェンスで閉鎖されています。

扁額は「海老島隧道 昭和35年5月 しゅん功」

なぜか「竣功」の「竣」が平仮名ですが、こちらは市原隧道とは異なり、明確に「昭和35年5月」が竣功年月であることがわかります。

洞内です。
海老島隧道も市原隧道同様に、かなり真円に近い断面です。地質のためによるものなのでしょうか…。

南側坑口の銘板です。

延長 26.M00
幅員 5.M50
有効幅 4.M50
竣功年月 昭和35年6月
施行者 朝日土木興業株式会社

と記されています。

海老島隧道にも、市原隧道同様旧旧道があるようなので、そちらを進みます。
幅員は市原隧道の旧旧道よりやや広いかな、といった程度です。

隧道延長が26mと市原隧道よりも短いため、すぐに稜線が近づいてきました。
こちらにもやはり石仏が祀られていますが、市原の旧旧道の石仏群に比べ、数が少なく、きちんと土台のように盛り上がった部分に安置されていました。

カーブの頂点。U字などという生やさしいものではなく、ほぼV字です。一応カーブミラーはありますし、外側に若干の余地はあるのですが、軽車両や自転車でも曲がるのが大変そうです。
かつて別所街道と呼ばれたこの道が国道指定を受けたのは、その1でも述べた通り1953(昭和28)年5月です。一方、海老島隧道の竣工は先ほどの銘板によると1960(昭和35)年ですから、もし海老島隧道が銘板通り昭和35年に開通したとすると、それまでの7年間は、この道が国道だったということになります。
ちょっと信じがたいですね…。

カーブより先は幅員が狭まり、完全に歩道程度になってしまっています。
もともとこの程度の幅員だったのか、あるいは路肩崩落などで狭くなってしまったのかは判然としません。

旧道との合流地点では、道幅が広がっていました。

線形を見ていると、旧道からはこちらの旧旧道へ進むほうが真っ直ぐで自然に感じられます。もっともその先に待っているのは、とんでもないV字のブラインドカーブな訳ですが…。

旧旧道と隧道の位置関係を振り返って眺めます。
隧道は26mですから本当にごくわずかな距離で、画面左手の樹木の奥にある明るい緑の部分が、V字のブラインドカーブの地点になります。

海老島隧道北側坑口です。
こちらは市原隧道とは異なりアンカーによる補強は見られませんが、周囲はかなりの面積がコンクリート吹付となっています。

扁額。南側坑口と同じく「海老島隧道 昭和35年5月 しゅん功」。

南側のものと同じ銘板も坑口左手に設置されていました。

海老島隧道の先のカーブを曲がると、橋梁が見えてきました。
路盤は、中央線が消されて一車線にする処置が、隧道直前まで施されています。

現市原トンネルと直結する海老嶋大橋です。
市原トンネルの北側坑口が見えています。

旧道から橋を眺めて。
旧道が山沿いに迂回している谷を、立派な橋梁でごく緩いカーブで直線的に結んでいます。

一方の旧道は、弓なりに進んでゆきます。

しばらく進むと、南側同様柵が設けられ、車両の進入ができないようになっていました。

その北側はかなり広いスペースがあり、ここまでの間はまだ活用されているようです。

中央線の消された跡が残るまま、いよいよ現道と合流します。

ふと橋のほうを見やると橋脚が工事中でした。
三遠道路がこの場所を横切ることになっているようです。完成すれば、旧道、現道、三遠道路と三世代の道路が絡み合う光景を眺めることができそうです。

合流地点を現道側から。
こちらも旧路盤をガードレールで塞いで現道と丁字で合流するように処置がされていました。

現道の海老嶋大橋です。旧道ではいずれも隧道の名称であった市原と海老島ですが、現道ではトンネルの名称に市原が、橋梁の名称に海老嶋が引き継がれています。海老島の島は橋梁では「嶋」となっていますが、もともとの地名は「海老嶋」のようなので、それに合わせたようです。

海老嶋大橋を渡って市原トンネルの北側坑口へ。
こちら側も南側とほぼ同じデザインです。

銘版をアップで。

市原トンネル
2009年6月
愛知県新城設楽建設事務所
延長 192.0m 巾 10.75m
高 4.5m
施工 鈴中工業株式会社

線形的には旧道はかなり問題のあるものでしたが、バイパスによる改良が行われたのはわずか5年ほど前でした。

橋の上から旧道を。廃道後まだ5年ほどなので比較的良い状態を保っていますが、やがてこの道もまた、他の廃道と同じように草木に埋もれてゆく運命なのでしょうか…。

 

最後に、地形図の変遷から歴史を追ってみてみましょう。

その1で記したように、市原隧道の扁額には「昭和40年1月巻立」とありますが、竣工とはないので開鑿は更に前のことと思われます。そして海老島隧道の扁額には「昭和35年5月 しゅん功」とあります。

国道指定は1953(昭和28)年ですから、1960(昭和35)年までの7年間、V字急カーブで車両の通行もできないような幅員しか持たない旧旧道が、果たして国道だったのか。

まずは明治の図版から。


五万分の一地形図「本郷」
(参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院)明治四十一年測圖 明治四十四年五月三十日發行 愛知県図書館蔵)より引用

1911(明治44)年の段階では、まだ当該箇所には隧道記号は見られず、旧旧道が現役だったものと思われます。


五万分の一地形図「田口」
(参謀本部陸地測量部(現国土交通省国土地理院)明治四十一年測圖 昭和八年要部修正測圖 昭和十一年七月三十日發行 愛知県図書館蔵)より引用

続いて1936(昭和11)年版。実はこの時点で既に市原隧道、海老島隧道が地形図上に登場しています。

国道151号についてのエピソードをまとめた「国道一五一号道一五一話」(内藤昌康著 春夏秋冬叢書刊 2004年)という書籍に市原、海老島隧道の項があるのですが、ここには以下のように記述されています。

「奈根川の谷が急に深くなり、天竜川の支流の相川と合流する手前で、二つの短いトンネルを連続で越える。海老島トンネルと市原トンネルである。二つのトンネルが開削されたのは大正十三年。海老島は昭和三十五年、市原は昭和四十年に改修されている。」
(出典:内藤昌康著「国道一五一号道一五一話」 春夏秋冬叢書 p197)

私自身、東栄町誌などを調べましたがこの二つの隧道については記述が見られず、「国道一五一号道一五一話」の原典が不明なので直接は確認できていないのですが、同書では「大正十三年」と明記されており、市原、海老島それぞれの扁額に記された年月が改修された年月と合致することから、国道指定のはるか前、1924(大正13)年の時点で、既に素掘りの隧道としては両隧道とも開通していたようです。見慣れない市原隧道の「巻立」という表現のほうが、実はより現実に即していたことになります。

ですので、市原、海老島両隧道の旧旧道は、国道としての指定を受けていたことはないものと思われます。


五万分の一地形図「田口」
(建設省地理調査所(現国土交通省国土地理院)明治四十一年測量 昭和三十二年第二回要部修正測図 昭和三十五年五月三十日発行 愛知県図書館蔵)より引用

1960(昭和35)年版では1936(昭和11)年版からほとんど変わりがありません。


五万分の一地形図「田口」
(建設省国土地理院(現国土交通省)明治四十一年測量 昭和四十七年編集 資料:昭和四十五年測量1:25,000地形図 昭和四十九年八月三十日発行 愛知県図書館蔵)より引用

1974(昭和49)年版では、なぜか市原隧道が消失しています。修正間違いでしょうか。


五万分の一地形図「田口」
(国土交通省国土地理院 明治四十一年測量 昭和四十七年編集 平成七年修正 資料:平成五年修正測量1:25,000地形図 平成八年四月一日発行 愛知県図書館蔵)より引用

そして現行版となる1995(平成7)年版。
五万分の一地形図は改訂が進んでいないため、まだ2009(平成21)年の新市原トンネルと海老嶋大橋の開通は反映されていません。赤線で追記した部分が現道となります。

現場や地形図を眺めていると、国道151号の通行上かなりのボトルネックとなっている箇所であったことが非常によく窺えるので、もっと早く改修が進んでも良かったのではないかと思いますが、様々な事情があったのでしょう。

いずれにしても、真円に近い断面形状の隧道、旧旧道の石仏群、V字のカーブなど、地味ではありますが非常に見所が多い旧道でした。

(了)

 

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